The Folk Crusaders / ザ・フォーク・クルセダーズ

The Folk Crusaders / ザ・フォーク・クルセダーズ
Biography

ザ・フォーク・クルセダーズ(The Folk Crusaders)は、昭和40年代前半(1960年代後半)にデビューした音楽制作集団で、フォークルという略称でも呼ばれる。

The Folk Crusaders / ザ・フォーク・クルセダーズの活躍

1965年、当時大学生の加藤和彦の雑誌「MEN’S CLUB」での呼びかけに応じ、北山修が妹の自転車で加藤を訪ねる。その後、平沼義男、浪人生の井村幹生、芦田雅喜が加わって5人で結成され、「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトから「ザ・フォーク・クルセイダーズ」と名乗る。

二人の脱退により、加藤・北山・井村の三人組になり、関西アンダーグラウンドシーンで活動していた。1967年の解散を記念して、製作費23万円で自主制作盤のアルバム『ハレンチ』を制作。300枚しか制作できなかったこのアルバムの中に、自作の「帰って来たヨッパライ」と、アマチュア時代から歌い続けてきた「イムジン河」が含まれていた。
同年10月に開催された第1回フォークキャンプコンサートに出演した後に解散する。

1967年、アルバム『ハレンチ』を音源として、フォークルの歌がラジオでさかんに取り上げられるようになった。京都では『イムジン河』、神戸では『帰って来たヨッパライ』が頻繁にラジオで流されるようになった。やがて、こうした状況を察知した各レコード会社がデビューの話を持ちかける。加藤は反対したが、北山の説得に応じて「それでは一年だけなら」とのことで一年限りのプロ活動を承認。プロデビューに当たっては、平沼らに代わってはしだのりひこが参加する。

『帰って来たヨッパライ』は1968年に開始されたオリコンで史上初のミリオンヒットになるなど、当時の日本のバンドによるシングル売り上げ一位となる爆発的売れ行きを見せ、一躍メンバーは時の人になった。そして『帰って来たヨッパライ』、『悲しくてやりきれない』などの楽曲を含むアルバム『紀元貮阡年』により、大衆音楽への新たな方向性を切り開いた。

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1968年10月17日、大阪でのさよならコンサート(この公演では平沼と芦田も第一幕に参加している。北山は井村が抜けているにもかかわらず、これが初代のメンバーといっている)を開き、同日の『11PM』に出演。約束通りに解散した。『青年は荒野をめざす』(五木寛之作詞)が本グループとして最後のシングル曲になり、1968年12月に発売されている。『週刊平凡』1968年9月19日号によると、累計売上は14億5000万円。

The Folk Crusaders / ザ・フォーク・クルセダーズの解散後

北山修は作詞家として大成功するも、大学院進学を機にしばらく活動を中止。のち大学教授にまでなったため、あくまで学者としての活動が主で、芸能活動は従のスタンスを取る。

加藤和彦はソロに転向するが、やがてサディスティック・ミカ・バンドを結成。加藤和彦と北山修のコンビでは、『あの素晴しい愛をもう一度』を発表した。作詞家の安井かずみト再婚して、コンビで多くの曲を残した。

はしだのりひこは、「はしだのりひことシューベルツ」「はしだのりひことクライマックス」「はしだのりひことエンドレス」などを結成、解散を繰り返し、ソロ転向。杉田二郎、坂庭省悟などを世に出すきっかけともなるがその後はフォークルファミリーとは一線を画し、独自の活動をしている。

The Folk Crusaders / ザ・フォーク・クルセダーズの再結成

2002年、加藤和彦は北山修と再会し、その結果として生まれたのが『戦争と平和』であった。ちなみに、この時のフォークル新結成にはザ・フォーク・クルセダーズの大ファンであったTHE ALFEEの坂崎幸之助が、はしだのりひこに代わるメンバーとして参加している。

2009年加藤和彦が自殺。

2012年、きたやまと坂崎は加藤が遺書の中で拒否した追悼を行う意味で新作アルバムを制作することを計画する。きたやまの自宅で発見された加藤の未発表曲をベースにした「若い加藤和彦のように」を制作したほか、加藤のソロ曲や過去のフォークルなどでの北山&加藤コンビの作品をカバーレコーディングし、ザ・フォーク・クルセダーズ名義のアルバム「若い加藤和彦のように」を制作、翌2013年3月30日に発売した