Takuro Yoshida / 吉田拓郎 - 100JFolk.com

Takuro Yoshida / 吉田拓郎
Biography

吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 – )は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、フォーライフレコードの第2代社長である。

日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり、1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である。また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした。

 ・ 吉田拓郎のアルバムまとめサイト : 100TakuroYoshida.com

Takuro Yoshida / 吉田拓郎の活躍

1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送でDJを担当したりした。エレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、吉田の抗議で音源を録り直した。

1971年10月、後藤由多加とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション『ユイ音楽工房』を設立。11月には広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供。

1972年1月にCBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結ぶ。
移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売りあげた。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知された。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になった。
さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込んだ。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まった。

拓郎は、梓みちよに「メランコリー」、1974年1月15日に、森進一に「襟裳岬」を提供する。この「襟裳岬」が第16回日本レコード大賞を受賞した際、上下ともジーンズの普段着で登場し、平然と賞を受け取った。

1975年には、かまやつひろしに「我が良き友よ」を提供、この曲もヒットとなった。1975年5月に、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなる(拓郎5位、陽水7位)。

1975年6月1日にCBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社『フォーライフ・レコードを発起した。これを機に「吉田拓郎」と改名する。

1977年6月には、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任。井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕の対応に追われる。
70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんて恐くない」を提供。

『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La(シャングリ・ラ)』を発表した。 1982年6月に、ツアー最中の株主総会で、フォーライフ・レコード社長を退任。

1994年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。 1999年9月30日にフォーライフレコードとの専属アーティスト契約を解消する。

2000年4月にインペリアルレコードに移籍する。 2003年4月に、肺ガン手術のためコンサートツアーは延期となるが、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。

2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する。

(Wikipedia)